ユネスコ無形文化遺産 京都祇園祭綾傘鉾保存会

綾傘鉾について

祇園祭について

祇園祭は、かつては“祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)”と呼ばれていました。その起源は、貞観5年(863)に神泉苑でおこなわれた「御霊会(ごりょうえ)」に遡るとされ、流行していた疫病を鎮めるためにおこなわれたといわれます。当時の日本では、御霊信仰と呼ばれる、恨みなど負の念を残し亡くなった人々が怨霊となり、疫病などの災厄をもたらすと考えられていました。御霊会は、その怨霊や疫神と呼ばれる災厄をもたらす存在を鎮めるための祭礼でした。

御霊信仰は平安時代には牛頭天王(ごずてんのう)の祭と習合し、祇園御霊会として定着してゆきました。牛頭天王はインドでは祇園精舎の守護神でしたが、日本では御霊信仰と結びつき、厄神とみなされるようになりました。この神を祀れば疫病や災厄から免れることができるとして、広く民間に普及しました。春から夏前の時期に御霊会がおこなわれるのは、この頃がいちばん疫病の流行しやすい季節だったからです。このことは梅雨の集中豪雨による河川の氾濫とも関係があります。鴨川や桂川などの京都の河川は、かつてはよく氾濫しました。河川の氾濫は水害であると同時に、伝染病の流行という二次的な被害をもたらすことは今も知れたことでしょう。だからこそこの時期に災厄や疫病の招来の根源とされた御霊を祀り、京の町の平安を祈願したのです。

平安京において御霊会がいつ頃始まったかについては諸説があり、明確な時期は不明です。おそらく平安時代後期の10世紀末から11世紀頃には牛頭天王を祀る神仏習合の社殿としての祇園社が成立し、ほぼ同じ時期に祇園御霊会が年中行事として定着したであろうと考えられています。

綾傘鉾について

綾傘鉾について

綾傘鉾は、現在の三十三基ある山鉾の中でも大変珍しい「傘鉾」の形態をとる鉾です。傘鉾は剣鉾や鎌鉾などとともに、今日の山鉾の形態が完成する以前の古い形であり、京都市北区今宮神社のやすらい花の花傘に代表されるような、いわゆる風流(ふりゆう)と呼ばれる作り物や芸能のもっとも基本的な形態を今に伝えるものだといわれています。応仁の乱以前の15世紀前半の記録にも綾傘鉾が登場することから、550年以上前から存在した古い鉾であることがわかります。

祇園祭を中心とした、山車研究では第一人者である植木行宣氏は、著書の中で「囃すものと囃されるもの」という表現を用い、祇園祭山鉾の特質について述べています。それによれば、山鉾の基層には「風流拍子物」の特質が流れているといいます。すなわち「風流拍子物」は神霊の送迎、特に疫神や災いなどの退散を願う「ハヤス」という行為から出た群集の踊りが基本であり、芸能としての特質は、太鼓などの打ち物系の楽器(打楽器)を踊り子が自ら打ち踊り、そして移動するところにあります。「風流拍子物」は鉾や傘、作り山や仮装の者たちが主体となり、それらは拍子に囃されて移動することを特質としました。囃される傘や山は神霊の依り付く「座(くら)」であり、神霊の動座を現したものです。

このように、山鉾の原初形態の一つである「傘鉾」は、まさに囃されて移動する神霊の動座そのものであり、そこには「棒振り囃子」に代表される、派手な囃子を伴っていることが必要だったのです。室町時代の記録に登場する山鉾の中で、「綾傘鉾」や「四条傘鉾」はともに「はやし物」と表現されています。極言すれば「傘鉾」はそれだけで存在しても意味はなく、また「棒振り囃し」もそのものだけでは意味を持たないということもできます。両者がそろい、それらが移動してはじめて意味を持つ「風流拍子物」になったのです。

綾傘鉾の近世

綾傘鉾の近世

綾傘鉾は江戸後期の天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されましたが、元治元年(1864)の大火で大部分を消失してしまいました。その時の鉾の本体は、北観音山の古い部材をもらい受けたと伝えられています。その模型が残されていまして、現在では、祇園祭の期間は大原神社に展示していますが、それ以外の時期は、京都市右京区広沢の佛教大学宗教文化ミュージアム(旧称:佛教大学アジア宗教文化情報研究所)で展示されています。

綾傘鉾棒振り囃子

綾傘鉾棒振り囃子

佛教大学所蔵の「洛中洛外図屏風」(以後「佛大本」と称す)には、9基の山鉾が四条通から寺町通を南行し、さらに松原通を西に向かう様子が描かれています。その中で注目すべきは傘鉾で、これは傘の先にご神体の鶏が見えることから、あきらかに綾傘鉾だとわかります。多くの「洛中洛外図屏風」に傘鉾が描かれていますが、明確に綾傘鉾を措き、さらにその周囲で演じられる棒振り囃子の様子を克明に描いた屏風は珍しいといえましょう。絵をよく見ると、綾傘鉾の周囲で赤熊(しゃぐま)を被った者たちが1人は横笛を吹き、1人が鉦を持ち、2人が対面で太鼓を打ち、もう1人が棒振りを演じていることがわかります。

現在の綾傘鉾棒振り囃子は、綾傘鉾囃子方保存会(壬生六斎念仏保存会)の人たちによって演じられていますが、壬生村の人たちが綾傘鉾に関わるようになるのは近世中期の18世紀中頃以降のことだといわれていますので、屏風に描かれている棒振り噺子は、おそらく中世から存続していた専門の芸能集団によって演じられていたものと考えられます。ただし具体的にどこの、どのような芸能集団が綾傘鉾に奉仕していたかは不明です。しかし少なくとも「佛大本」が描かれたであろうと思われる17世紀後半の時期において、今日とほとんど変わらぬ衣装を纏い、鉦、笛、太鼓にあわせて棒振り囃子が演じられていたという事実は大変興味深いといえましょう。

ところで、今日の棒振り囃子に用いられる棒は、長さ5尺弱ほどで、両端に1尺ほどの房を付けたものです。棒振りには棒を振るうことで、周囲のさまざまな災厄を祓う目的があると考えられます。また、太鼓方は二人で一つの締太鼓を、一人が手に持って受け、もう一人がそれを打って踊りながら囃します。

文責:八木透(佛教大学歴史学部教授)

※このページは京都市の「大学地域連携モデル支援事業」の助成を受けて作成いたしました。